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#049 一輪の綿花から始まる倉敷物語
倉敷川畔伝統的建造物群保存地区
保存地区は標高36.8mの鶴形山の南ろくに位置し、鶴形山の周辺一帯は阿知の潟と呼ばれる浅海であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、 1584年(天正12年)宇喜多秀家による潮止め工事が大々的に行われ、新田が開発された。1600年(慶長5年)には備中国奉行領になり、翌年の 1601年(慶長6年)には検地が行われた。倉敷村はこのような過程の中から生れてきた。 当時、この地域には多くの人々が居住し、1609年(慶長14年)の水夫屋敷の帳面に172筆が記録されている。その後、1642年(寛永19年)には幕府直轄地のいわゆる天領として幕府の支配下におかれ、物資輸送の集散地として、また、急速に開発が進んだ周辺新田地帯の中心地として繁栄するようになった。そして有力な町人(商業地主)層があらわれ、人口も急増し、元禄年間から文政年間の約130年間に人口は2倍に増加し、活況を呈するようになった。 こうした背景のなかで、保存地区の特性である本瓦葺塗屋造りの町屋と土蔵造りの蔵などを中心とした町並が形成された。その後、若干の洋風建築(美術館、旧町役場)が建てられたが現在では違和感は無く、鶴形山の緑や倉敷川畔の柳並木と調和し、優れた歴史的景観を形成している。 保存地区は標高36.8mの鶴形山の南ろくに位置し、鶴形山の周辺一帯は阿知の潟と呼ばれる浅海であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、 1584年(天正12年)宇喜多秀家による潮止め工事が大々的に行われ、新田が開発された。1600年(慶長5年)には備中国奉行領になり、翌年の 1601年(慶長6年)には検地が行われた。倉敷村はこのような過程の中から生れてきた。
江戸時代に干拓地からの富を背景に政治・経済の中心地となった。江戸期の商家群と明治以降の西洋建築が美しく調和する町並みが残る。
【文責】 倉敷市 日本遺産推進室
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